皆さま、こんにちは。

前回修士論文のことを書きました。
私たちオペラ科は修士演奏会が12月にあり、論文提出、口頭試問となるわけですが、夏にヨーロッパに行ってからというもの、私の留学への思いは募るばかり。
イタリアは何となく自分に合わないような気がして、ウィーンに行きたい!
その理由の1つにウィーン国立音大のワルターモーア先生のレッスンを日本で受けたことがあったのです。
モーア先生が奈良にある大学の教授のお宅でレッスンをされるというので、我が師匠の薦めで受講したんです。
その時ドイツリートを持って行ったような気がしますが、モーア先生に「君は留学する気はないのか?ウィーンで勉強してみないか?」とお声をかけて頂いたのです。
それは夏前のことだったはずです。
でも両親との約束に大学院か留学かどちらか、と言う約束があったのです。
その当時父はサラリーマンでしたし、弟も受験を控えていましたから、そんな余裕もなかったはずです。

でもレッスンを受けた後、絶対留学したいと思いは募るばかり。
ここから両親への説得が始まりました。
毎日のように留学したいと言い続けたと思います。
うちにはそんな余裕はない、弟もいるのに、と言われながら・・・
そして、ある日母と一緒に師匠のお宅へ行ったときに、師匠が説得してくれたのです。
こんなチャンスはない、留学から帰国したら大学への就職の道も開かれるはずだと。
師匠には3年生の時からお世話になり、本当に可愛がって頂きました。
自分では愛弟子の1人だと勝手に思っています(笑)。
それだけでは簡単に許してはくれません。
2時間半の遠距離通学も乗り越え、説得に応じてくれ遂に認めてくれる日が来たのです!

こう書くと簡単に認めてくれたように見えますが、実際はかなりバトルもしましたし、今でこそこんなこと親によく言えたな、という言葉も浴びせました。
何というエゴだと思います。
才能があるとでも思っていたのでしょうね。
親が子に勝てないのをいいことに・・・
許しが出たものの、しかし条件があると。
2年間で帰国すること。
住む家が決まっていないと行ってはいけないこと。

そこは師匠がウィーンに住む知人の先生のお嬢様を紹介して下さり、その美穂さんがお家を探してくれたのです。
ウィーンの住宅事情なんて全く分かりませんから、国際電話で何度もやり取りをしましたね。
師匠がイタリアに留学されていたので、門下生もイタリアに行く人はいましたが、今でこそウィーンで結婚した同門生もいるもののその頃は誰1人いませんでした。
本当に知り合いは誰1人なく、その美穂さんだけが頼りでしたね。
それが23区のRoissgasseです。

ウィーンはドイツ語です。
ドイツ語は第2外国語で取っていて、成績も良かったはずですが、日本の教育の典型的な学生でしたからね💦
話せるはずがありません。
そこで修士演奏会の練習も佳境に入る頃、留学に向けての準備のため、淀屋橋にあったゲーテインスティトゥートにドイツ語を習いに行き始めたのです。

ゲーテには仕事で渡欧する人や留学する人など様々な人たち、20人くらいはいたでしょうか。
中には今ではバリトン歌手として有名な三原剛さんご夫妻もいらっしゃいました。
毎週淀屋橋に向かうとOLやビジネスマンが丁度帰宅時間で、全く縁のない私にはとても新鮮で、ドイツ語よりそちらが楽しかった記憶があります。
しかし修士演奏会と論文で多忙になり結局辞めることに・・・

そして、1994年7月2日伊丹空港から全くドイツ語も話せない中旅立つことに!

今日はこの辺で・・・つづく